子供達が小さい頃、当時暮らしていた郊外のマンションの住人とエレベーターに乗り合わせても、せいぜい会釈する程度だった。敷地内ですれ違っても知らない人とは挨拶もしないし、それが普通だった。
地方の親戚のマンションに遊びにいった時、すれ違う人が皆「こんにちは」と挨拶をしてくる。エレベーターで一緒になった人は気軽に話しかけてくる。
「暑くてかなわんね」
「あぁ、親戚の家に遊びに来たんだ。楽しんでいきな」
ちょっとしたカルチャーショックだったが、なんだか温かくていいなと思った。
さて、昨日に引き続き挨拶のハナシを。
SNSのコメントに、挨拶の語源について言及があった。
仏教用語の「一挨一拶」が挨拶の語源なのだそうだ。そこで調べて(ググって)みた。
「挨」は「攻める」「軽くふれる」「押す」
「拶」は「切り返す」「強くふれる」「迫る」
という意味があるようで、師と修行者や修行者同士が、ことばや動作で互いに相手の悟りの深浅などをためすこと、なのだそうだ。
真剣勝負というか、現在の挨拶とはかなり趣が違う。
師が弟子を厳しく試すようなところが、現在の子供に厳しく挨拶を指導したり、部下や目下の者に挨拶がないと嘆くような文化に通じるのだろうか。
挨拶をしない事への憤りをSNSに書くのは「一挨一拶」の意味からは外れるようにも思う。SNSに書く前に相手と話してみたらどうだろうか。「なぜ挨拶をしないのか」「挨拶の大切さ」を、軽く押してみたり深く切り込んでみたりしながら、互いに鍔迫り合いすることこそが「一挨一拶」なのではないだろうか。
ただ、こういうやり取りを仕掛けると「ご挨拶だな」と思われるのがオチだ。コメントにもあった「まあまあ」とやり過ごすのも処世術だ。
海外ではどうなのだろうかと気になり、ネットを彷徨っているとエジプト出身アラブ人の日本の挨拶に関する考察が見つかった。
日本人も外国人も挨拶を大切と考えているが、外国人がより広く深くコミュニケーションを図ろうとするのに対し、日本人はどちらかというと「必要最小限」の挨拶であるようだ。
大人や先輩が教育的に指導するだけで、実際の社会生活や家庭生活の中では、きちんと挨拶が行われていないのではないか。このような状況が、日本人の「必要最小限」の挨拶行動を作り出しているのかもしれない。
そうかもしれない。
コミュニケーションの手段としての挨拶と修行の一環である挨拶(一挨一拶)を混同したまま、時に自分に都合よく「挨拶」という言葉を使っているのかもしれない。
「おはよう」「いってきます」「いってらっしゃい」「ただいま」「おかえり」「ありがとう」「ごめん」
家族とこういう言葉を交わせているか。
そして、さらに言葉を重ねていけているか。
関係ないけど、語源について調べてる過程で見つけた書家さんの書。